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稲村城〜地元愛あふれるお城 [攻城ノススメ☆]

スタジアムで有名な小机の話でも書こうと思っていたが、衣笠城以来色々お世話になっている武蔵の五遁さん稲村城へ行かれたようなので、例によって便乗して稲村城を侵略 襲撃 奪掠 攻城したときのことを書こうかと思う。
稲村城は千葉県、房総半島の先っちょの方にある。戦国時代に千葉(県の領域)でぶいぶい言わせていた里見さんのお城である。先っちょと言っても館山城や、もっと南の本当の先っちょのようなところにある白浜城なんていうものもあるのだが、まあだいたい先っちょということで。

先っちょの話はどうでも良いのだが、私はこのお城には箕輪城の翌々日に出かけた。そしてこの翌日には甲府市の要害山城に行っている。どれも選りすぐりの名城址である。そういうお城に行きたい盛りのお年頃だったのだろう。
因みにそれぞれのお城の所在地は、鉄道路線で言うと高崎線、総武線〜内房線、中央線、どう見てもこれは通勤五方面攻城作戦(笑)だろう。春18きっぷで毎日のように攻城しているが、なめこさんが学生で春休みだったわけではない。大方失業していたか、自由業で閑職だった頃か。

さて、ここで例によって予めお断りしておくのだが、本ブログの本カテゴリにおいて、何らかの城址、城郭の有益な情報を得ようと思っても無駄である
まともな稲村城の情報を得ようと思われる方は、武蔵の五遁さんのページ()や他にも有益なサイトがいくらでもあるので、是非検索してそちらをご覧いただきたい。

さて、あらためて稲村城とは?
はい、例によって解説板!

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今ある水往来手前の解説板は当時無かったので、ググストを拡大するなりして読んでいただきたい。(←読めませんw)

館山市のサイトはこちら(里見氏城跡 稲村城跡)。

もう一つ、こちらに素晴しいpdfの資料がある(国史跡「里見氏城跡 稲村城跡」保存管理計画書)。

里見氏の居城であったことは既に述べた。ここでは家督関係で何やら血なまぐさい事件があったそうだ。この千葉の領主たちの歴史は、地形同様ものすごくややこしい。以前、国府台合戦や上総武田氏や真里谷氏などを調べたことがあり、系図まで書いてみたりしたが、わけがわからず頭がうにになった。家が分裂する、管領も分裂する、公方も分裂する、合戦も分裂する(一つと思われていた国府台合戦も一次と二次に分裂しました(笑))、海の向こうからは北条がぶんぶん押し寄せてくる。「小弓公方」はまだしも「房総管領」なるものが出てきた時点で投げ出した。ってか「房総」どんだけ偉いんだよ。まったくこれだから千葉は(笑)。

稲村城攻城の話をしよう。

西大井だったか品川だったかで横須賀線に乗る。

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稲村城は、房総半島の先っちょの市の中心駅、館山よりもさらに先の九重駅が最寄りである。取り敢えず千葉まで行ければ、その先何かあるかあるだろう。運良く直通がないかぎりは、千葉県は千葉駅まで行かないとどうしようもないのだ。
千葉県に詳しくない方のために、路線図をリンクしておく(pdf

千葉駅に到着した。だがすぐに出る館山方面の電車がない。。。Orz
次の君津行きなどに乗っかってもどうしようもないだろう。実は以前館山に行ったときに痛い目にあっている。君津で乗り換えは期待できない。しかも君津は時間をつぶせる街ではない。これだから千葉は。。。

仕方がないので、ちょっと駅の外に出てみる。18きっぱーの強みである。

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さすがは政令市、千葉である。都会の駅だ。鉄道の連絡が悪いのは千葉市のせいではない。千葉県のせいなのだ。青春を突っ走ってなんかいるからだ!(何言ってるのだ)

千葉の駅前を堪能したのち、安房鴨川行き、これに乗る。ってもう10時じゃねーかよ!

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千葉に詳しくない方用に説明しておくと、房総半島をぐるんと回る鉄道は、東京湾側の内房線と太平洋側の外房線に分かれている。両者の境目を、私は房総半島の先っちょ(に見える)館山だと思っていた。ところが違っていて、もうちょっと東の太平洋に直面している安房鴨川駅なのだそうだ(先ほどのpdf参照)。歴史的なものなのか、距離的なものなのか、私はFeではないのでその理由を知らないし、あまり興味もないので調べない。

九重駅は館山の1個先の駅である。まだ内房線の範囲内だ。

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1時間に一本である。これだから千葉は(っていつまでも千葉ディスってないで、とっとと城の話始めろ!)

うむ、そうであった。

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駅のすぐ後ろに山があるが、これは城ではない。
もう一個西にある山がお城である。

線路に沿って西へ歩く。見えている山が稲村城である。

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右奥に見えるLawsonとその手前の看板は、2014年4月現在のストリートビューでも確認できる(だったらわざわざ画像載せるなw)。どうも大楠山登山口の一件以来、コンビニとは儚いものであるという固定観念が染み付いてしまったようだ。

この先がよくわからない。

とりあえず、武蔵の五遁さんのおっしゃる「う」の尾根を特攻しようかと思ったが玉砕したようだ(左画像)。多分一般のお宅か何かで行止りだったのだろう。
尾根の左側(南側)にさらに進攻する(右画像)。

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「水往来」が攻城者にとって一般的な入口である(まあ駅から一番近いし、登城路はドラマチックだし、看板的にオーソライズされているので「一般的」と言って良いだろう)ということを私は知らない。
先ほどの「う」の場所もそうだが、当時はこんな寺山修司的な親切な手の矢印などはなかったのである。


人家があり、一見はいりにくい場所であるのでスルーしたのだろう。さらに山を回り込む。

周りが平地なのでこういうのも谷戸というのかどうかはわからないが、道がついている。ここから入れそうだ。

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この場所はググストで特定できた。


段々の形状や奥の木の本数も一致する。ここで間違いないだろう。

いい感じの山道である。

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「おうけつぼ」?何だそれは。てかどこだ?この中か?

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いやだな〜入るりたくないよ〜、と思いつつもめりめり入っていったなめこさんである。

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塞がれている?中に入って悪いことする人とかがいるのだろうか。未成年がタバコ吸ったり(←ねーよw)

GoogleMapによれば、このあたりは横穴墓がいっぱいあるらしい。いわゆるやぐらである。あれは鎌倉の土地不足対策のものだったはずだが、このあたりはいくらでも土地がある。時代も少し下っているが、この形態は何かトレンドとかステータスとかだったのだろうか。

ここから先、どういう経路を通ったのかはわからない。画像のファイル番号的に次はボツにした同じ横穴墓の写真だが、その次がいきなりこの画像になっている。

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「正木様」の脇、武蔵の五遁さんでは「お」の辺りである。せっかく謎の経路で侵入したのに、武蔵の五遁さんによればここで右上からバンバカ攻撃され、千田先生(誰だよ)みたいに「やられたあ〜」ということになるのだ。

そしてさらにここから先は時系列がわからない。いや時系列はわかるのだが、場所の関係がわからない。なめこさんはどうも、目についた道をランダムに適当に歩いたらしい。城郭素人と言われる所以である。同じ場所が何度も出てくる。まるで系統だっていない。これだから千葉は(千葉関係ないだろ!)

なので、だいたいそうだろうという場所順に適当に画像を並べる。違っていたら申し訳ない。
それぞれの正確な位置については武蔵の五遁さんのサイトで確認していただくか(ひでー)、さもなければ現地を訪れていただきたい。いや本当、ここは私のような城跡素人の方にも是非一度は訪ねていただきたいお城である。何と言っても国指定の史跡である(リンクできないので検索してね)し、地元の方々(安房文化遺産フォーラム)によって整備もきちんとなされていて藪々ではない、とても気持ちよく歩ける城跡である。血なまぐさい歴史もあるし。(←おい)

まずは堀切3。よほどなめこさんは気に入ったらしく何度も往復して切通を撮っているが、わけがわからなくなるので、水往来から登城方向に何枚か並べてみる。

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軍事施設であるという観念がなければ、何かとても素敵な空間に見える。まあお城と言っても24時間365日びゅんびゅん戦争していたわけではないだろうから、素敵な場所ではあったのかもしれない。

次に、さっきの正木様と畑の間の通路を通って中郭部

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正木様

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なんで「正木様」なのかは、このページの趣旨ではないので書かないが(え?)、正木さんといえば、例の三浦氏の一族である。以前どこだかに書いた紀州の家老になった三浦さんもその系統である。

ここから長〜〜い尾根が続く。

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看板が親切だ。なるほど尾根道か。って見ればわかるか。
ここの眺望がとても良い。

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上の画像はさっきのLawsonが写っているので北東方向、順番に東へ回転していると思う。最後の画像は駅の辺りか。遠景に何が写っているのかはさっぱりわからないが、例えば左下の最奥に見える山はほぼ太平洋に近いところにある山のようだ。

堀切2。盛り上がってまいりました(笑)。

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盛り上がっているところ申し訳ないが、この先、いきなり時系列的には本郭を通らずに堀切1にワープする。

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さきほどの保存管理計画書に掲載されている地図によれば、東廻りで北小口に達する道があるようだ。当時あったかどうかはわからない。あったとしても上の土塁から攻撃されて千田先生みたいに(いいからそれは)
いずれにせよ、その間の画像が無いのでどこをどう歩いたのかは今となっては何ともいえない。

北小口ら本郭に登り振り向いたところ。クネクネしている

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本郭

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怒涛の土塁!

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南小口を出てから入る方向。

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東尾根

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何だかよくわからないが、左が土橋、右が堀切。

最初の堀切3から水往来を下る。

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稲村城を振り返ったところ。(えっ?もう終わり?)

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この山の左側(南側)の尾根がずーっと長く続いていて、房総半島の先っちょの先っちょ、野島崎近くの白浜城まで道がつながっていたそうだ。谷戸から登る山道のどこかにその道があったはずだが全く記憶がない。
10年ほど前に白浜城からこちら側に踏破した記録もある(白浜城跡から郡界尾根まで 房州古道を往く)。【この連載は、ハイキングガイドではありません】とまで但し書きがあり、なかなかの難路であるようではあるが、尾根サーチャー(笑)としてはなかなかそそられる道である。いつかチャレンジしてみたいものだ。

面白いことに、直接的な関係は無いと思うが、ほぼこの古道に並行して現在は「安房グリーンライン」という広域農道がある。上記のレポートでは何度も建設中のこの道路と出会っている。三浦主尾根の横横みたいなものか(いや違うだろ)
動画もいくつかあるようである(検索されたし)。通しで観ていないが、速度標識が見当たらないので法定速度で走っちゃっていいのかな?信号もほとんどない、気持ちの良さそうな道路である。稲村城近辺でも、正木様から見下ろした眺望の下を横に走っているはずだが(お城へ行くのに線路に沿った道から踏切を渡る道路でもある)、このときは元々の道路(普通の農道)はあるがまだ拡張はされていないようだ。


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駅で電車待ちだと、どうしてもこういうしょうもない写真を撮ってみたくなるのが人情である。

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電車が来た。
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前回、燻蒸とやらで博物館と天守に入れてもらえず、孔雀と八遣臣のお墓の写真だけ撮ってきた館山城へ向かう。
その話はまたいずれ。
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