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ストッパー [地学]

カテゴリが合っているのかどうかわからないが、一応真面目な話だからいいだろう。(真面目?)

昨夜は風の音と振動で目が覚めて眠れなかったので、パソコンで「情報」の実況を見ることにした。
台風の奴めが今いったいどこにいるかである。最初に寝る前は伊豆諸島あたりをうろうろしていたが、この風であればごく近所まで来ているはずである。 位置を知り、ある程度遠くへ行ってくれたことを確認すればぐっすり眠ることができる。
早速、台風情報を見てみよう。

TyphoonInfo.png

なんだこの雑な図は(笑)
あなたが関東地方南部に在住されているとして、この図を見て自分と台風の位置関係を把握することができるであろうか。今冷静に見れば、台風がだいたい東京湾と相模湾の間辺りにいるというのはわかるが、三浦にいるのか、房総にいるのか、はたまたまだ海上にいるのかぱっと見で判別できない。
一応ヤフーの名誉のために申し上げておくが、この、日本列島がどーんと描かれているざっくりとした縮尺の融通のきかない図はここだけのものではない。気象庁も気象協会もウェザーニュースも同じようなものである。座標値を表示しているサイトもあるので、自分でプロットすれば正確な位置を知ることも可能であるが、おうちが飛びそうな南沙織状態(はい?)でそこまでやる心の余裕はない。
そもそもこの図が「ちっちゃ!」と思うのは、以前ヤフーが、自分のところのズーム可能な地図で台風の進路と予想を詳細に記した情報を表示した様なページを公開していたからである。だが今は無くなってしまったようだ。利用者の預かり知らぬどこかからクレームでも出たのであろうか。「国民は警報注意報などの公式発表以外の詳細な情報は知る必要がない」的な。もはや美しい国では、その程度の情報統制は日常茶飯事のことである。
結果、某掲示板等でも指摘している人がいたが、一連の気象情報の中で台風の進路に関しては、「雨雲レーダー」が一番精確な情報になるようである。
この精度である。

RainCloud.png

いわゆる台風の「目」にのぞいているのはこのブログ的にはお馴染みの三浦半島、この時刻には、台風の中心はだいたい「急な坂道を駆けのぼった」辺りにいることは、私のような気象の素人でも百恵さんでもはっきりとわかる。(え?)
もちろん、情報のピクセルは粗くなるがズームアップもできるし(「目」をあんまり拡大しても意味はないが)、ダウンもできる。ズームダウンすると、台風の周りだけ真ん丸に雨雲が固まっているかなり異様な状況も確認できる。
中心がだいたいわかれば、そこからの距離で風の強さのおおよそのピークがわかるし、同時に、この図本来の役割である雨足の強さもわかる。
南沙織状態(だから、はい?)だったのでいちいちスクショを取っていないが、この後、台風の野郎(野郎?)は東京湾をまさに縦断し、ご承知の通り習志野だか千葉の辺りに上陸したところまでは観察した。 風速がどの程度正確に中心からの距離と相関するものかはわからないが、今回の場合実際、現在位置からの直線距離が一番短いであろう横浜市や川崎市沖を通過している時刻が一番南沙織状態(はいはい)であったし、千葉の方には申し訳ないが、ちょうど千葉の沿岸に近づいた頃合いにはこちらの風は静かになったので、やっと眠りにつくことができた。

朝、ニュースを見て思ったこと。
引き合いに出して申し訳ないが、個々の事情はあると思うので一般論としての意見。封鎖された駅前でインタビューされた方が、この状況でこの時間に出てきたのは県内の比較的近場でのお客様との打ち合わせがあるからとのこと。こういうケースの場合(あくまでも一般論だが)お客様とのお約束は大事だが、近場であればお相手も同様に台風でひどい目に会っているはずで、そんな状態で早い時刻に出てくることについて、お互い何とか調整できなかったものだろうか。と、阪神淡路のとき、一応新幹線沿線ではあるが阪神とは全く関係ない場所での打ち合わせを、電話で泣きついてすっぽかしたことのあるなめこさんが言ってみる。(だからあんたは出世しないんだ)

止まっている交通機関のニュースはしつこく繰り返し流し、復旧したものについてはせいぜい2,3回流す程度なので全然目立たないのだが、例によって京急さんはあっという間に(あっという間?)復旧していたみたいである。ってか、あれだけマスコミが執拗に追求していた新町の事故の話はどうなったんだ?あ?(にも関わらず、隣国のタマネギ男問題は順調に報道されていたようですw)

いつだかの春の嵐のとき、速攻でポールから外れてハンガーを破壊しまくった物干し竿のことをすっかり忘れていたが、朝見たらしっかりポールに残っていた。ハンガー破壊事件以降、両端にストッパーを付けたからである。
恐るべし、物干し竿ストッパー、台風15号に勝ったぞ。(笑)

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中央構造線 下 [地学]

中央構造線 上からのつづき

水郡線に乗ってから少し後の夏、私は中央構造線を見たことがある。
正確には中央構造線露頭である。

古城址探訪(通称:城攻め)に凝り始めていた私は、「18きっぷ日帰りで日本100名城をどこまで攻められるか」という実にくだらない企画を遂行していた。当時の時点で東海道沿線で一番遠方に達したのは「長篠城」である。(時刻表で調べたところ、JR在来線のみの日帰りではひこにゃんぐらいまでは行けそうだったが、そちらは後日まともな手段で攻城してしまった)

長篠近辺は結構見るものが多い(ガイドブックpdf)。しかしそのときの私は、とりあえず城跡を見たら、3つぐらいの隣の駅に移動して例の有名な設楽原古戦場を見て帰ろうぐらいの認識しかなかった。だが、資料館か案内板かで鳥居強右衛門のエピソードが何かの琴線に触れたのであろうか。城から川を挟んだ対岸、強右衛門さんが磔になった場所へ行ってみることにした。戦前イデオロギーみたいなものとは全く別の次元においても、強右衛門さんのエピソードはなかなか泣ける話なのだが、本題ではないのでここでは割愛する。
川の対岸のその場所はすぐ目の前なのだが、橋が無いので7〜800mほど西へ大回りをしなければならない。
途中に馬場美濃守信房(馬場信春)(武田方)のがあるというので寄り道をした。馬場信春と言えば、直近で言えば男闘呼組のベースの人が演じたのが印象に残っている。山本勘助の弟子みたいな役柄だったかな?この人についても本題ではないのでここでは省略する。

そこから橋に向かう途中にこういう看板を見つけた。

nagashino1.png

中央構造線とは、地学上の「何かの概念」という認識しかなかった私は、それを目で見ることができる場所があるものだとは思っていなかった。矢印の下の文章が気になったがとりあえず行ってみることにした。

nagashino3.png nagashino4.png

ピンボケ写真ばかりで面目ないが、このような怪しげかつ危なげな通路を通る。看板に書かれていたように、天候が悪いと確かにちょっと躊躇するだろう。
恐る恐る通路を歩いて行くと、正面にこれがいた。

nagashino5.png

上が領家変成帯、下が三波川変成帯、まさにがっぷり四つである。

nagashino2.png

この説明板によれば、下の三波川変成帯が構造線の南側、上の領家変成帯が構造線の北側である。何らかの力でくにゃっと傾いてしまったのだろうか?今後これがごごごごごっと動くことがあるのだろうか?

前記事で紹介した「中央構造線ってなに?」を見るかぎり、中央構造線=活断層ではなく、中央構造線の影響で活断層が生じている、という印象がある。このあたり、東三河の活断層はよそと比べて比較的おとなしいらしい。こことかこことかこことか。最後のはアレなんだが他地域との比較材料にはなるだろう。
中央構造線ってなに?」によっても、中部地方の中央構造線活断層系はC級活断層なのだそうである。C級活断層とは、1000年に1〜10cm動くものであるとのこと。その「動く」という規模がどのぐらいのものか見当がつかないが、Wikipediaから適当に数字を拾ってみると、
  • 関東大震災 2〜7m
  • 阪神淡路大震災 記載無し
  • 東日本大震災 最大で30〜60m
  • 熊本地震 30cm〜2m
メートル単位で動いているものからみると1000年に10cmなんかたいしたことなく見えるが、もちろん単純な数値の問題ではないだろうし、実は今日がその1000年目かもしれないのである。
また、実際この近傍で「三河地震」というものが戦争中に起きている。この地震で深溝断層(ふこうずと読む)というものが出現したそうである。中央構造線との直接の関係性はわからないが、先ほどのここを見ると一応ライン上には乗っかっている。

不勉強の身で「活断層」についてあまり軽々しいことは言えないが、昔の断層の回りに次々と新しい断層が出来て、そのうちのいくつはは活発に活動することはあるだろう。今度のことも、寝た子を起こすように誘発され活断層が活動することによってかなりの広範囲に及んでしまったということだろう。しかもまだ終わっていない。

だからといって、一部に言われているような、中央構造線沿いに大地震が次々と誘発されて「こっちにも来るぞ!」的な、小松左京の「日本沈没」みたいな大スペクタクルが起きるようなことはちょっと想像できない。相手は一億年以上前の代物である。
用心にこしたことはないが。

どこぞの団体が「熊本城」修復に多額の寄付をしたという。だがそれ以前に、その周囲に住む人々の生活や街並みを元のように戻すことの方が先だろう。人里離れ忘れられた廃城も素敵だが、人々とともに生きているいい意味で観光地されたお城も楽しい。活動が収束し、いち早く人々の生活や街が元に戻ることを願ってやまない。

川を渡ってお城の方向に戻ると、強右衛門さん磔の場の少し手前に強右衛門さんの大きなお墓がある。GoogleStreetViewで見ると、その間に当時は無かった「新東名」がいつの間にか横切っている。強右衛門さんもびっくりぽんであろう。
長篠城の方に戻るつもりであったが、すぐ近くに「鳥居駅」があったので、そこから電車に乗り、次の目的地に向かった。


中央構造線 上 [地学]

まだ、今みたいに尾根変態になる以前、18きっぷで「水郡線」に乗ったことがある。石岡に行って看板建築だの国府跡だの見て、時間が余ったので水戸から迂回して帰ろうと思ったのである。

Suigun1.png

そのときは咄嗟でわからなかったが、水戸からだと迂回どころか全然逆方向で、終点の郡山で、東京方面が1時間待ち、19:40黒磯行までないとわかったときには途方に暮れてしまった(貧困層の私に新幹線の選択肢はない)。それでも東北線を黒磯、宇都宮と乗り換え、上野で23:44桜木町行の京浜東北に乗れてしまったので東京の電車は恐ろしい。

水郡線は水戸から郡山まで(厳密には安積永盛駅まで、それと常陸太田までの支線がある)、茨城の海側から福島の中通りに抜ける。途中、「久慈川」流域から「阿武隈川」流域の分水界を越えるのだが、分水界越えの実感がない不思議な路線である(トンネルがあるが、これは阿武隈川支流同士の小分水界である)

Suigun2.jpg

路線上の両川の分水界は棚倉という町の平らな市街にある(分水界業界(←なにそれ?)では有名らしく、「棚倉 分水界」で検索すると色々と面白いサイトが見つかる)。前半は久慈川の幅の広い川面がずっと線路に寄り添い、最後は阿武隈川の幅広い川面で閉められる。その間に山越えらしきものはない。路線は阿武隈山地と八溝山地(筑波山のある山地)の間の「谷間だけ」をひた走るのである。印象的には東北本線の走る中通りへ山越えする感覚があったのだがそうではない。

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この阿武隈山地と八溝山地の間のラインを「棚倉構造線」という。このラインの両側では、地質の基盤や構造が全く異なるらしい。ラインの東側を東北日本、西側を西南日本という。

そして西南日本を南北に分割しているラインが「中央構造線」である。

「尾根探索(笑)」の趣味は私に取って、どちらかといえばトポロジー、いやベクトル解析かな?いずれにせよ幾何学的数学的な興味であり、地質学的興味とは少し違う。
地方のローカル高校出身で授業に「地学」が無かったため、私には地学の基礎知識がない。大学の一般教養で選択したのだが教員のミスで単位は取れておらず(他で単位が足りていてめんどくさいのでそのま放棄した)、講義の内容の記憶もない。
にも関わらず、日頃から「三浦は断層の宝庫」だの「断層の麗人」だの無責任なことを言っているので、この機会に中央構造線について少し勉強してみることにした。
中央構造線についての説明は、ここがわかりやすい → 中央構造線っなに?

(以下何か間違い等があればご指摘ください)

「地学」知らなくても地図を眺めるのが好きな人は、紀伊半島の真ん中辺から和歌山、海を越えて徳島から松山までの四国の北側に怪しげな直線状の谷が走っていることに気づくだろう。さらに紀伊半島の東側、伊勢湾を渡り中部地方、長野の諏訪湖あたりまでもその延長として怪しいラインがある。
食器で有名なマイセン出身の、ナウマン象で有名なナウマンさんが、このラインを中央構造線と名付けた。確かなところで、ラインの西側は伊方発電所付近を経由し海を渡って九州に達し、一方東側は諏訪湖から先、角度を変えてさいたまの岩槻の地下あたりに達していることまでは確認されているらしい。西側のその先は阿蘇山の下を通って熊本を通過し長崎の軍艦島の方へ達するものと、その少し南側、八代を通過し川内発電所方面に伸びているものが候補としてあげられている。東側にもいつかのコースが候補としてあげられているが、南は匝瑳市(難読地名)や旭市方面、北は東海発電所方面に向かっている。

中央構造線っなに?のサイトより

色々見て、棚倉構造線の記述が出てきたとき、水郡線のことを思い出した。棚倉構造線の存在理由は色々あるようだが(プレートの違い(北米vsユーラシア)とか、何かものすごい横ずれが起きたとか)、「地学」が無かった私のレベルではよくわからない。ってかプレート境界ってヤバくね?と思ったが、海底ではなく地面の上にあると比較的大丈夫らしい(Wikipediaの地図)。

しかるに中央構造線はプレート境界ではない。別のプレート運動によって後天的に生じた正真正銘の断層(断層帯)である。
「日本列島の素」は、ユーラシア大陸プレートに次々と海洋プレートが襲来して(←何かみたいだ)めりめりめりっと大陸の下に潜り込んできたとき、海洋プレート側の海の底に沈んでいたものが剥がされてぺたぺたぺたっと大陸の端っこにくっついてできたものらしい(付加体という)。そうこうして「日本列島の素」が大陸の仲間入りしていたとき、別の方向から来た海洋プレートによって変な方向に力が加わり、横ずれ断層がいっぱいできてしまった(タンルー断層系という)。その断層群の一つが中央構造線である。これがジュラ紀のこと、恐竜が地上でぶいぶい言わせていた時代である。

その後、「日本列島の素」部分は大陸に別れを告げることになるのだが、ここで「観音開きモデル説」というものが登場する。その力の源が何なのか「地学未履修」の私にはさっぱりわからないのだが、何でも「日本列島の素」の地面が東側は反時計回り、西側は時計回りで回転しながら大陸から移動し弧状の陸地が生じ、大陸との間にばっくりと空いた穴が日本海(東海ともいう。日本から見れば西海、いや西北海だがめんどくさいので日本海で通す)、回転方向が違うためにぱきっと割れた部分に色々なものが堆積したのが「フォッサマグナ(←ナウマンさん発見、命名)というのが現在の日本列島の形状ができるまでの説明である。新第三紀中新世、ヒト科(オランウータンや、ゴリラ、チンパンジーの皆さんを含む)が出現した時期のことである。



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