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古道と天守 [攻城ノススメ☆]

例の天守とエレベータの話である。

文才、いや単に作文能力がないために、例のあはん♡街道をGo!Go!シリーズ、実にくだらない序文の段階で執筆がストップしてしまっているのだが、そこへ元々組み入れるつもりであった北村庄一氏の素敵な文章を少し長いがここで先出し引用しておこう。

(引用者注:宅地開発で失われた古道の区間を歩きながら)ここまで公園の中の緑道そして舗装道路の端の歩道と古道は変貌したようだ。考えてみると、古道はそのまま、人の手にかからずに現存するはずはない。人の手がかからないということは、自然のままに放置されるということであり、道は草におおわれ木の根がはびこり、土砂で埋まりあるいは風雨で崩れる、だから道路は絶えず人の手によって維持されねばならならない。それが古くは木や石による舗装だったり、石畳だったりした。それが現代風にコンクリートの舗装になり、公園の一部に組み込まれていたりするということなのだろう。


まさに目からウロコ、鼻から牛乳である。(はい?)
この文章は前に引用したような気もするが、検索しても出てこないので多分していないのであろう。
あるいはこれはいつぞや書いた「里山」の概念にも多少通じている。一度人の手の入ったもの(広義の人工物)は、かぎりなくメンテを行わないとその存在意義を失うものであり、重要なのはそのメンテは必ずしも「現状維持」や「保存」だけではない、ということである。

単なる古道や里山と文化財を同じ土俵で論じるなとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、、失礼ながら専門家でいらっしゃる例の千田先生などのお考えは、やはり根底の部分でこれと通じるところがあるのではないかと思っている。

大阪城の天守など、やれ鉄筋コンクリートだ、エレベーターだ、そもそも現存してなかったじゃねーかよなどさんざん揶揄されたりするが、政治や軍事目的などの「城」としての役割は終えたとはいえ、とりあえず高いところに登れて殿様気分を味わえるというまさに地元民が喜びそうな意味では立派に復興した天守であり(大阪人Disるなw)、最近では耐震補強もされ、そして例のエレベーターも設置された。(すいません、大阪城は多分子供の頃に行ったきりほとんど記憶にないので、伝聞のみでこの辺は適当です)

じゃあいわゆる現存天守とかはどうするんだよ、ということになるが、やはり「城」としての役割は終え、とりあえず高いところに登れて殿様気分が味わえるような価値(じゃなくて文化財としての価値と言えw)が諸々のハンディとは無関係に共有すべきものであるならば、その昇降等の移動手段やその他のアクセスに関する問題については、何らかの措置による解決を試みるべきであろう。昇降についてはもしかしてエレベーター以外の手段もあるかもしれないし、何ならこっそりとエレベーターつけちゃってもいいんだぞ。(こっそり?)
今は大変便利な時代である。あるいは携帯エレベーターだとか(はい?)、バーチャルエレベーターとか(?)、ドローンで上まで飛ばすとか(何を?)、どうにだってなる。(うちのなめこが不真面目ですみません)
今適当に思いついたが、飛行機のタラップみたいに移動エレベーターみたいのはどうだろう?手間だのコストだの不毛なこと言うなよ。ぎりぎり譲って月に何日か設置する日を決めるとか。上に登りたい人は(面倒くさがりの健常者を含めて)その日に来ればよいし、外から景観を楽しみたい人は(もちろん障がいのある人を含めて)そうでない日に来れば良い。それが嫌ならやっぱり内部にこっそり作るしかないな。(こっそり好きだなw)

因みにあの大馬鹿野郎が「ジョーク」だか「遺憾」だかと称して国際的にスベったあの凶悪な発言は、これらの議論とは無関係、論外であると申し添えておく。

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続・エレベーター [攻城ノススメ☆]


グロ動画注意 ↓(結局埋めたのかよw)

やっぱりグロが気持ち悪いので、こっちに張り替えておく。(笑。グロ動画は上のリンク先にあります)



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稲村城〜地元愛あふれるお城 [攻城ノススメ☆]

スタジアムで有名な小机の話でも書こうと思っていたが、衣笠城以来色々お世話になっている武蔵の五遁さん稲村城へ行かれたようなので、例によって便乗して稲村城を侵略 襲撃 奪掠 攻城したときのことを書こうかと思う。
稲村城は千葉県、房総半島の先っちょの方にある。戦国時代に千葉(県の領域)でぶいぶい言わせていた里見さんのお城である。先っちょと言っても館山城や、もっと南の本当の先っちょのようなところにある白浜城なんていうものもあるのだが、まあだいたい先っちょということで。

先っちょの話はどうでも良いのだが、私はこのお城には箕輪城の翌々日に出かけた。そしてこの翌日には甲府市の要害山城に行っている。どれも選りすぐりの名城址である。そういうお城に行きたい盛りのお年頃だったのだろう。
因みにそれぞれのお城の所在地は、鉄道路線で言うと高崎線、総武線〜内房線、中央線、どう見てもこれは通勤五方面攻城作戦(笑)だろう。春18きっぷで毎日のように攻城しているが、なめこさんが学生で春休みだったわけではない。大方失業していたか、自由業で閑職だった頃か。

さて、ここで例によって予めお断りしておくのだが、本ブログの本カテゴリにおいて、何らかの城址、城郭の有益な情報を得ようと思っても無駄である
まともな稲村城の情報を得ようと思われる方は、武蔵の五遁さんのページ()や他にも有益なサイトがいくらでもあるので、是非検索してそちらをご覧いただきたい。

さて、あらためて稲村城とは?
はい、例によって解説板!

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今ある水往来手前の解説板は当時無かったので、ググストを拡大するなりして読んでいただきたい。(←読めませんw)

館山市のサイトはこちら(里見氏城跡 稲村城跡)。

もう一つ、こちらに素晴しいpdfの資料がある(国史跡「里見氏城跡 稲村城跡」保存管理計画書)。

里見氏の居城であったことは既に述べた。ここでは家督関係で何やら血なまぐさい事件があったそうだ。この千葉の領主たちの歴史は、地形同様ものすごくややこしい。以前、国府台合戦や上総武田氏や真里谷氏などを調べたことがあり、系図まで書いてみたりしたが、わけがわからず頭がうにになった。家が分裂する、管領も分裂する、公方も分裂する、合戦も分裂する(一つと思われていた国府台合戦も一次と二次に分裂しました(笑))、海の向こうからは北条がぶんぶん押し寄せてくる。「小弓公方」はまだしも「房総管領」なるものが出てきた時点で投げ出した。ってか「房総」どんだけ偉いんだよ。まったくこれだから千葉は(笑)。

稲村城攻城の話をしよう。

西大井だったか品川だったかで横須賀線に乗る。

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稲村城は、房総半島の先っちょの市の中心駅、館山よりもさらに先の九重駅が最寄りである。取り敢えず千葉まで行ければ、その先何かあるかあるだろう。運良く直通がないかぎりは、千葉県は千葉駅まで行かないとどうしようもないのだ。
千葉県に詳しくない方のために、路線図をリンクしておく(pdf

千葉駅に到着した。だがすぐに出る館山方面の電車がない。。。Orz
次の君津行きなどに乗っかってもどうしようもないだろう。実は以前館山に行ったときに痛い目にあっている。君津で乗り換えは期待できない。しかも君津は時間をつぶせる街ではない。これだから千葉は。。。

仕方がないので、ちょっと駅の外に出てみる。18きっぱーの強みである。

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さすがは政令市、千葉である。都会の駅だ。鉄道の連絡が悪いのは千葉市のせいではない。千葉県のせいなのだ。青春を突っ走ってなんかいるからだ!(何言ってるのだ)

千葉の駅前を堪能したのち、安房鴨川行き、これに乗る。ってもう10時じゃねーかよ!

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千葉に詳しくない方用に説明しておくと、房総半島をぐるんと回る鉄道は、東京湾側の内房線と太平洋側の外房線に分かれている。両者の境目を、私は房総半島の先っちょ(に見える)館山だと思っていた。ところが違っていて、もうちょっと東の太平洋に直面している安房鴨川駅なのだそうだ(先ほどのpdf参照)。歴史的なものなのか、距離的なものなのか、私はFeではないのでその理由を知らないし、あまり興味もないので調べない。

九重駅は館山の1個先の駅である。まだ内房線の範囲内だ。

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1時間に一本である。これだから千葉は(っていつまでも千葉ディスってないで、とっとと城の話始めろ!)

うむ、そうであった。

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駅のすぐ後ろに山があるが、これは城ではない。
もう一個西にある山がお城である。

線路に沿って西へ歩く。見えている山が稲村城である。

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右奥に見えるLawsonとその手前の看板は、2014年4月現在のストリートビューでも確認できる(だったらわざわざ画像載せるなw)。どうも大楠山登山口の一件以来、コンビニとは儚いものであるという固定観念が染み付いてしまったようだ。

この先がよくわからない。

とりあえず、武蔵の五遁さんのおっしゃる「う」の尾根を特攻しようかと思ったが玉砕したようだ(左画像)。多分一般のお宅か何かで行止りだったのだろう。
尾根の左側(南側)にさらに進攻する(右画像)。

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「水往来」が攻城者にとって一般的な入口である(まあ駅から一番近いし、登城路はドラマチックだし、看板的にオーソライズされているので「一般的」と言って良いだろう)ということを私は知らない。
先ほどの「う」の場所もそうだが、当時はこんな寺山修司的な親切な手の矢印などはなかったのである。


人家があり、一見はいりにくい場所であるのでスルーしたのだろう。さらに山を回り込む。

周りが平地なのでこういうのも谷戸というのかどうかはわからないが、道がついている。ここから入れそうだ。

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この場所はググストで特定できた。


段々の形状や奥の木の本数も一致する。ここで間違いないだろう。

いい感じの山道である。

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「おうけつぼ」?何だそれは。てかどこだ?この中か?

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いやだな〜入るりたくないよ〜、と思いつつもめりめり入っていったなめこさんである。

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塞がれている?中に入って悪いことする人とかがいるのだろうか。未成年がタバコ吸ったり(←ねーよw)

GoogleMapによれば、このあたりは横穴墓がいっぱいあるらしい。いわゆるやぐらである。あれは鎌倉の土地不足対策のものだったはずだが、このあたりはいくらでも土地がある。時代も少し下っているが、この形態は何かトレンドとかステータスとかだったのだろうか。

ここから先、どういう経路を通ったのかはわからない。画像のファイル番号的に次はボツにした同じ横穴墓の写真だが、その次がいきなりこの画像になっている。

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「正木様」の脇、武蔵の五遁さんでは「お」の辺りである。せっかく謎の経路で侵入したのに、武蔵の五遁さんによればここで右上からバンバカ攻撃され、千田先生(誰だよ)みたいに「やられたあ〜」ということになるのだ。

そしてさらにここから先は時系列がわからない。いや時系列はわかるのだが、場所の関係がわからない。なめこさんはどうも、目についた道をランダムに適当に歩いたらしい。城郭素人と言われる所以である。同じ場所が何度も出てくる。まるで系統だっていない。これだから千葉は(千葉関係ないだろ!)

なので、だいたいそうだろうという場所順に適当に画像を並べる。違っていたら申し訳ない。
それぞれの正確な位置については武蔵の五遁さんのサイトで確認していただくか(ひでー)、さもなければ現地を訪れていただきたい。いや本当、ここは私のような城跡素人の方にも是非一度は訪ねていただきたいお城である。何と言っても国指定の史跡である(リンクできないので検索してね)し、地元の方々(安房文化遺産フォーラム)によって整備もきちんとなされていて藪々ではない、とても気持ちよく歩ける城跡である。血なまぐさい歴史もあるし。(←おい)

まずは堀切3。よほどなめこさんは気に入ったらしく何度も往復して切通を撮っているが、わけがわからなくなるので、水往来から登城方向に何枚か並べてみる。

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軍事施設であるという観念がなければ、何かとても素敵な空間に見える。まあお城と言っても24時間365日びゅんびゅん戦争していたわけではないだろうから、素敵な場所ではあったのかもしれない。

次に、さっきの正木様と畑の間の通路を通って中郭部

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正木様

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なんで「正木様」なのかは、このページの趣旨ではないので書かないが(え?)、正木さんといえば、例の三浦氏の一族である。以前どこだかに書いた紀州の家老になった三浦さんもその系統である。

ここから長〜〜い尾根が続く。

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看板が親切だ。なるほど尾根道か。って見ればわかるか。
ここの眺望がとても良い。

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上の画像はさっきのLawsonが写っているので北東方向、順番に東へ回転していると思う。最後の画像は駅の辺りか。遠景に何が写っているのかはさっぱりわからないが、例えば左下の最奥に見える山はほぼ太平洋に近いところにある山のようだ。

堀切2。盛り上がってまいりました(笑)。

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盛り上がっているところ申し訳ないが、この先、いきなり時系列的には本郭を通らずに堀切1にワープする。

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さきほどの保存管理計画書に掲載されている地図によれば、東廻りで北小口に達する道があるようだ。当時あったかどうかはわからない。あったとしても上の土塁から攻撃されて千田先生みたいに(いいからそれは)
いずれにせよ、その間の画像が無いのでどこをどう歩いたのかは今となっては何ともいえない。

北小口ら本郭に登り振り向いたところ。クネクネしている

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本郭

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怒涛の土塁!

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南小口を出てから入る方向。

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東尾根

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何だかよくわからないが、左が土橋、右が堀切。

最初の堀切3から水往来を下る。

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稲村城を振り返ったところ。(えっ?もう終わり?)

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この山の左側(南側)の尾根がずーっと長く続いていて、房総半島の先っちょの先っちょ、野島崎近くの白浜城まで道がつながっていたそうだ。谷戸から登る山道のどこかにその道があったはずだが全く記憶がない。
10年ほど前に白浜城からこちら側に踏破した記録もある(白浜城跡から郡界尾根まで 房州古道を往く)。【この連載は、ハイキングガイドではありません】とまで但し書きがあり、なかなかの難路であるようではあるが、尾根サーチャー(笑)としてはなかなかそそられる道である。いつかチャレンジしてみたいものだ。

面白いことに、直接的な関係は無いと思うが、ほぼこの古道に並行して現在は「安房グリーンライン」という広域農道がある。上記のレポートでは何度も建設中のこの道路と出会っている。三浦主尾根の横横みたいなものか(いや違うだろ)
動画もいくつかあるようである(検索されたし)。通しで観ていないが、速度標識が見当たらないので法定速度で走っちゃっていいのかな?信号もほとんどない、気持ちの良さそうな道路である。稲村城近辺でも、正木様から見下ろした眺望の下を横に走っているはずだが(お城へ行くのに線路に沿った道から踏切を渡る道路でもある)、このときは元々の道路(普通の農道)はあるがまだ拡張はされていないようだ。


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駅で電車待ちだと、どうしてもこういうしょうもない写真を撮ってみたくなるのが人情である。

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電車が来た。
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前回、燻蒸とやらで博物館と天守に入れてもらえず、孔雀と八遣臣のお墓の写真だけ撮ってきた館山城へ向かう。
その話はまたいずれ。
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興国寺城〜土塁萌え空堀萌え [攻城ノススメ☆]

すでに書いてるかもしれないが、私は基本、お城好き、厳密にはお城跡好きである。
だがマニアというほどでもないし、城郭に関しての知識もあまり詳しくない。多分松村くん(誰?)よりもずっと以下だろう。だからと言って、天守だけに萌えてきゃあきゃあ言うタイプでもない。現存12天守?そんなもなあどうでもいいのである(言い切ったな)
そう、私は土塁萌え、空堀萌えなのだ!セーラームーンではない(意味がわからないぞ)

この機会にいくつかヒマネタとして(別にヒマではないのだが)、自分がかつて侵略した(←攻城とかにしておけ)城址を適当にピックアップしてご紹介していこうかと思う。

城郭、城址に関しては他所に素晴らしいサイトが山ほどある。そこへ私が生半可なことを言ってもボロが出るだけである。写真も昔のソニーのT9か、iPhone4とかで撮った稚拙なものばかりだ。そのような状況で何か語っても先人の方々に失礼なだけである。よってそのあたりは適当にお茶を濁して、何が写っているのか意味不明な写真をぺたぺた貼っていい加減なコメントを書く、という私なりの手抜き企画で行こうと思う。
つまりこのブログの本カテゴリにおいて、何らかの城址、城郭の有益な情報を得ようと思っても無駄である。
そのあたりはご承知いただきたい。

私が、土塁萌え、空堀萌えになったきっかけのお城がある。本記事のタイトル、「興国寺城」である。

今調べたら、このお城は当然入っているものだと思っていた日本百名城に入っていない。勘違いしていた。なのでカテゴリ名を変える。(またかよ)
「百名城のススメ☆」→「攻城のススメ☆」(なんか元みたいに戻ったような。。。)

2008年の8月(随分前だな)である。
当時貧困に足を踏み入れていた私(笑)は、夏、あるいは冬、春には「青春18きっぷ」を購入して、近場の観光地に日帰り旅行をするのが定番になりつつあった。だが、首都圏で近場の観光地と言ってもたかがしれている。しかもJRで往復2300円(当時)でもとが取れるような中途半端に遠いところでもある。日光だとか水戸だとか。。。(前年行きました)
きっぷは買ってみたものの、行くところが思いつかない。5日分である。長野だの愛知だのの、鈍行日帰り観光の限界に挑戦する発想はまだなかった。

熟考の上思いついたのがこれである。

通勤五方面 侵略 攻城作戦!(なんじゃそりゃー!)

「通勤五方面作戦」とは何だ?という詳細はWikipediaを見ていただくことにして、五方面とは首都圏の放射状になっているJRの主要路線、時計回りに
  • 東海道本線
  • 中央本線
  • 東北本線
  • 常磐線
  • 総武本線
の5路線を指す。
この路線上の名城を攻めてみるのである。なかなかいい発想だ。(どこが?)
私は「Fe」ではないので言い回しが正確ではないかもしれないが、これらは線路名称であり、「通勤五方面作戦」には、例えば東海道本線では同じ経路を通る京浜東北線や横須賀線の一部も含まれると考えて良い。
さらにこの作戦としては、常磐線だけ例外にはなるが、「本線」に対する「支線」も含めて考える。東海道本線に対する大船から先の横須賀線とか、東北本線から分岐する高崎線、などである。
そしてそれぞれの沿線から適当に行きたいお城をピックアップして侵略攻城するのである。実に素晴らしいバカな企画である。

このとき、東海道本線方面の攻城対象として選んだのがこの興国寺城である。(他の方面についてはまたいずれ)
なぜここにしたのか、理由は忘れた。小田原は何度か行ってるはずなので、つーっと地図を辿っていって、次に近いところということで適当に選んだというところだろうか。

静岡県、原駅。

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小学校とかで東海道五十三次を暗記させられた人ならご存知であろう。沼津の次の宿場、原宿である。なんとか族が踊っているところではない。戸塚の先の渋滞の名所でもない。(話がローカルになってるぞ)

駅前の地図でだいたいの位置を把握する。

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とりあえず駅からだいたい北方向に向かえば良いようである。

北といえば方向的に富士の方角である。
本来なら雄大な富士山が見えているはずなのだが。邪魔だ、雲!

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まあ良い。べ、別に富士山見たくって興国寺城行くんじゃないんだからねっ!(やめろ)

30分と少し歩いて、お城の南端らしきところにたどり着く。

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この頃は整備中だったようだが、今はもう完了しているのだろうか?

道の右側は発掘調査中、そして反対の左側には何かすごいものが見えてきた。

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穂見神社。このあたりが本丸らしい。

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城郭についての解説。(興味のある方はクリック拡大してね)

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お城の歴史の解説。

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はい、これで興国寺城の説明はおしまいっ。(またそのパターンか)

すぐ裏に天守台がある。登ってみる。

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なんかものすごい土塁と空堀。

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天守台。

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天守台は地味だが、周りは怒涛の空堀と土塁である。

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原方面。いつのまにか随分高いところに登っていたようだ。

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普通私が堀だの土塁だのの写真を撮っても、だいたい何だかわからない、木と草と地面が写っているだけのものになるのだが、自画自賛するわけではないが、整備されている状況だからでもあるのか、これは随分わかりやすくまともに写っている。
もちろん本物の迫力はもっとすごい。

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そして私は目覚めた。
城郭は土塁空堀さえあれば、おいしくご飯いただけるじゃん。(その感情表現はどうかと思うが)

帰路。旧東海道。
主要な国道は、地方ではバイパスが作られ、旧道は忘れられかけているるケースが多いが、このような結構現役バリバリな道路を見るとなんか嬉しい。

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沼津駅。
おとなしくまっすぐ帰ればいいのだが、こういう表示を見るとつい御殿場線周りをしてしまうなめこさんである。

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箕輪城が整備されたらしい [攻城ノススメ☆]

※一部追記しました(2016.12.01)
※カテゴリ名がバカっぽく、かつウザいので変更しました(2016.12.02)
※都合により、カテゴリ名をさらに変更しました(2016.12.26)

カテゴリーがバカっぽくなってきているが。。。(変えました)

色々とネットサーフィン(←この用語まだあるのか?)していたら箕輪城が整備されていることを見つけた。びっくりポンである。
箕輪城にはずーーっと前に行ったことがある。7年前の桜の季節である。ということは当然18切符(悪いか?)

高崎からぐるりんに乗った。名前も形もかわいい。
 
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箕輪城についての詳細はめんどくさいので省略する。(え?)
興味のある方は上記高崎市のリンクをご覧いただくか、下の現地の案内板をクリック拡大してお読みいただきたい。

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はい、地図。

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箕輪城の現状山城めぐり」の記事による整備状況を、この当時と比較してみることにした。
例によって、そのときも城跡の構造(縄張り)はわからず、適当に歩いて適当に写真を撮っただけなので、どこがどこだかわからない。(少なくとも私の手元には)GPSのない時代だ。無謀な試みである。なので認識違いがあったらすみません。(武蔵の五遁さんの「土の城への衝動」箕輪城(1)以下の写真が参考になりました。この場で感謝いたします。)

このあたりに西虎口門が復元されたらしい。左が木俣側から、右が郭馬出側から。

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郭馬出と二の丸の間の大掘切の土橋。左が郭馬出から二の丸、右が二の丸から郭馬出、右画像の右奥が門だろう。

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二の丸。

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東側の搦め手(大駐車場ができたらしい。ググストで確認した)から登ってきたお城見学者にとってはここが玄関みたいなイメージの場所である(私は南の小学校側から登ったのだが)。後ろの樹木(あれ?何の木だろう)は全部引っこ抜かれてしまったのだろうか?
追記:木はだそうです。箕郷町の特産品だとか。全部引っこ抜かれてしまいました。。。画像を比較していただければわかりますが、他の堀などにあった樹木もかなり伐採されたようです。(富岡武蔵さん情報。ありがとうございました)
他にもお花畑みたいなのとかあって、あれはあれで良かったんですけどね。。。

「遺跡発掘調査中」が一段落したので整備したとか?

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箕郷町の表記があるが、この時点で自治体としての箕郷町はこの世にはない。この数年前に高崎市に吸収合併されたのである。

2時間後のバスで帰るつもりだったが、あまりの素晴らしさ、壮大さで逃してしまった。次は一時間待ち、なので高崎まで歩くことにした。(当時からこのパターンかよ。てかもう終わり?

地図を持っていない。だいたい南方向だろうと15分ほど歩き、この標識を見て絶望的な気分になった。

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さらに一時間以上歩き、行きの電車で路線図を見ておいた幸運に感謝した。

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高崎問屋町に駅があるのである。そちらへ向かうことにする。2km短縮!

このあと再び高崎駅で降りて、高崎城址と桜を見て回った。

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7km歩いたあとである。今ならありえない。

若いっ〜って素晴らしい♪


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