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中央構造線 下 [地学]

中央構造線 上からのつづき

水郡線に乗ってから少し後の夏、私は中央構造線を見たことがある。
正確には中央構造線露頭である。

古城址探訪(通称:城攻め)に凝り始めていた私は、「18きっぷ日帰りで日本100名城をどこまで攻められるか」という実にくだらない企画を遂行していた。当時の時点で東海道沿線で一番遠方に達したのは「長篠城」である。(時刻表で調べたところ、JR在来線のみの日帰りではひこにゃんぐらいまでは行けそうだったが、そちらは後日まともな手段で攻城してしまった)

長篠近辺は結構見るものが多い(ガイドブックpdf)。しかしそのときの私は、とりあえず城跡を見たら、3つぐらいの隣の駅に移動して例の有名な設楽原古戦場を見て帰ろうぐらいの認識しかなかった。だが、資料館か案内板かで鳥居強右衛門のエピソードが何かの琴線に触れたのであろうか。城から川を挟んだ対岸、強右衛門さんが磔になった場所へ行ってみることにした。戦前イデオロギーみたいなものとは全く別の次元においても、強右衛門さんのエピソードはなかなか泣ける話なのだが、本題ではないのでここでは割愛する。
川の対岸のその場所はすぐ目の前なのだが、橋が無いので7〜800mほど西へ大回りをしなければならない。
途中に馬場美濃守信房(馬場信春)(武田方)のがあるというので寄り道をした。馬場信春と言えば、直近で言えば男闘呼組のベースの人が演じたのが印象に残っている。山本勘助の弟子みたいな役柄だったかな?この人についても本題ではないのでここでは省略する。

そこから橋に向かう途中にこういう看板を見つけた。

nagashino1.png

中央構造線とは、地学上の「何かの概念」という認識しかなかった私は、それを目で見ることができる場所があるものだとは思っていなかった。矢印の下の文章が気になったがとりあえず行ってみることにした。

nagashino3.png nagashino4.png

ピンボケ写真ばかりで面目ないが、このような怪しげかつ危なげな通路を通る。看板に書かれていたように、天候が悪いと確かにちょっと躊躇するだろう。
恐る恐る通路を歩いて行くと、正面にこれがいた。

nagashino5.png

上が領家変成帯、下が三波川変成帯、まさにがっぷり四つである。

nagashino2.png

この説明板によれば、下の三波川変成帯が構造線の南側、上の領家変成帯が構造線の北側である。何らかの力でくにゃっと傾いてしまったのだろうか?今後これがごごごごごっと動くことがあるのだろうか?

前記事で紹介した「中央構造線ってなに?」を見るかぎり、中央構造線=活断層ではなく、中央構造線の影響で活断層が生じている、という印象がある。このあたり、東三河の活断層はよそと比べて比較的おとなしいらしい。こことかこことかこことか。最後のはアレなんだが他地域との比較材料にはなるだろう。
中央構造線ってなに?」によっても、中部地方の中央構造線活断層系はC級活断層なのだそうである。C級活断層とは、1000年に1〜10cm動くものであるとのこと。その「動く」という規模がどのぐらいのものか見当がつかないが、Wikipediaから適当に数字を拾ってみると、
  • 関東大震災 2〜7m
  • 阪神淡路大震災 記載無し
  • 東日本大震災 最大で30〜60m
  • 熊本地震 30cm〜2m
メートル単位で動いているものからみると1000年に10cmなんかたいしたことなく見えるが、もちろん単純な数値の問題ではないだろうし、実は今日がその1000年目かもしれないのである。
また、実際この近傍で「三河地震」というものが戦争中に起きている。この地震で深溝断層(ふこうずと読む)というものが出現したそうである。中央構造線との直接の関係性はわからないが、先ほどのここを見ると一応ライン上には乗っかっている。

不勉強の身で「活断層」についてあまり軽々しいことは言えないが、昔の断層の回りに次々と新しい断層が出来て、そのうちのいくつはは活発に活動することはあるだろう。今度のことも、寝た子を起こすように誘発され活断層が活動することによってかなりの広範囲に及んでしまったということだろう。しかもまだ終わっていない。

だからといって、一部に言われているような、中央構造線沿いに大地震が次々と誘発されて「こっちにも来るぞ!」的な、小松左京の「日本沈没」みたいな大スペクタクルが起きるようなことはちょっと想像できない。相手は一億年以上前の代物である。
用心にこしたことはないが。

どこぞの団体が「熊本城」修復に多額の寄付をしたという。だがそれ以前に、その周囲に住む人々の生活や街並みを元のように戻すことの方が先だろう。人里離れ忘れられた廃城も素敵だが、人々とともに生きているいい意味で観光地されたお城も楽しい。活動が収束し、いち早く人々の生活や街が元に戻ることを願ってやまない。

川を渡ってお城の方向に戻ると、強右衛門さん磔の場の少し手前に強右衛門さんの大きなお墓がある。GoogleStreetViewで見ると、その間に当時は無かった「新東名」がいつの間にか横切っている。強右衛門さんもびっくりぽんであろう。
長篠城の方に戻るつもりであったが、すぐ近くに「鳥居駅」があったので、そこから電車に乗り、次の目的地に向かった。


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