池上線フリー乗車デー 第3章 洗足池(下) [大田区ネタ]
この先は池畔どころか、池の中を歩けるらしい。
やはり皆さん、水生植物よりは池の中を泳いでいる動物の方に興味のある方が多いようだ。花より団子みたいなものだろうか(違うと思います)。
鯉に追いかけられている亀さんもいるぞ(見えね―)。
池や湖には島がつきものだがここにも島がある(右画像)(これも見にくいな)。
渡ってみよう。
小さな神社がある。洗足池辨財天(厳島神社)という。
ちょうどこの辺りが駅の方から見てトイメンにあたるようだ。
お参りして島を出る。前記事で述べた北側の清水窪辨財天からの水路の入水口。
スルーしてしまったが、東からの入水口は先程の水生植物園の付近、鯉や亀さんの辺りにあったらしい。
前記事にも書いたが、現在でも(改修されているが)これらの水路跡はある程度たどることができる。取り敢えず周りよりは標高が低くなっていて道路の片側に歩道のある場合は、だいたい水路跡(または暗渠)とみなして良い。今やってみたが、StreetViewでもある程度いい線まで辿れる(便利な時代になったものだ)。どこまで辿れるか、皆様もお試しあれ。
前記事にも書いたが、現在でも(改修されているが)これらの水路跡はある程度たどることができる。取り敢えず周りよりは標高が低くなっていて道路の片側に歩道のある場合は、だいたい水路跡(または暗渠)とみなして良い。今やってみたが、StreetViewでもある程度いい線まで辿れる(便利な時代になったものだ)。どこまで辿れるか、皆様もお試しあれ。
ほらあった。予言通り案内図完全版(笑)。
今までの経路はこれでだいたいおわかりになるだろう。(先に出しとけよ!)
お馬さんの像が見える。名馬「池月」の像である。
池月とは宇治川の戦いで、名馬「磨墨」との先陣争いに「勝ったぜガハハ」となった馬である。
宇治川の戦いとは、簡単に言うと平氏を追っ払って京都でぶいぶい言わせていた源義仲がウザいので、従兄弟の源頼朝が弟の源範頼、義経らを派兵して仕掛けた戦いである。戦い初頭で、頼朝から磨墨をもらった梶原景季、これを仮に小栗旬としよう(なぜ例える?)、そして池月をもらった佐々木高綱、これをえっとえっと(ほらつまった(笑))、まあ誰でも良い(いいのかよ)、彼らがそれぞれ海岸で腰を振る頼朝(誰のことだ?)からもらった馬に乗って先陣を争い、上記のような結果になったわけである。
池月さんはこの辺り、洗足(=千束)の生まれらしい。うろうろしていたのを頼朝が「捕まえたーっ♡」と言って自分のものにしたという。
磨墨はどこでどうごまかして自分のものにしたのかは知らないが、池月同様この近く馬込の出らしい。こちらは住宅地の真ん中に塚がある。
池月さんはこの辺り、洗足(=千束)の生まれらしい。うろうろしていたのを頼朝が「捕まえたーっ♡」と言って自分のものにしたという。
磨墨はどこでどうごまかして自分のものにしたのかは知らないが、池月同様この近く馬込の出らしい。こちらは住宅地の真ん中に塚がある。
像の下に貼ってあった池月の由来書き。私のインチキ臭い説明より、こちらをお読み頂いた方が良いだろう。
まずはその池月さんの勇姿をじっくりとご覧いただこう。
「べ、別に高綱さん勝たせたくていっしょうけんめい走ったんじゃないんだからねっ!」(池月さんで遊ぶな)
あれ?奥に神社っぽいのがあるな。
千束八幡神社である。小銭じゃらじゃらなのでこちらもお参りしていこう(こらこら)。
ここも池月さん絡みのようだ。というか、縁のある神社境内の裏の、池に面した目立つところに池月さんの像を建てたというのが正解だろう。
右の「池月發祥傳説」、高度ななんとかでもほとんど読めませんごめんなさい(だから逆光入れるなって言ってるのに)。。
もう一つお社。
こちらが池側の、表の入口である。
なるほど、いつも階段を登るのが面倒だからスルーしていたが、池月さんのいる裏からも入れるのだな。今日始めて知った(おい)。
池月さんと千束八幡神社について詳しくお知りになりたい方はこちらをそうぞ。
もう少し池月さんの話。私はFerrumでもIronでも無いので不正確な部分があったらごめんなさい。
現在の東急の前身、目黒蒲田電鉄が1928年に開通させた二子玉川線(大岡山〜二子玉川)の駅の一つに「池月駅」というものがあった。現在の北千束駅である。上記の逸話を知らないと何が何だかわからないシュールな駅名だが、戦前の人は知識があったのだろう。要は洗足池へのアクセス駅として、先行して1927年に雪ヶ谷からの延伸で開業されていた池上電気鉄道「洗足池駅」に対抗して造られた駅である。
地図をごらんになればおわかりになると思うのだが、この駅から一番近いと思われる水生植物園の辺りでも明確に駅から数百メートル離れている。一方の洗足池駅は目の前、中原街道を渡るだけである。これは明らかに池上電気鉄道の勝ちだ(乗り換えがあるが、目黒から向こうの人は池月から歩く方が便利かもしれないぞ)。
地図をごらんになればおわかりになると思うのだが、この駅から一番近いと思われる水生植物園の辺りでも明確に駅から数百メートル離れている。一方の洗足池駅は目の前、中原街道を渡るだけである。これは明らかに池上電気鉄道の勝ちだ(乗り換えがあるが、目黒から向こうの人は池月から歩く方が便利かもしれないぞ)。
そういう事情とともにシュールな駅名のウケが悪かったのか、2年後の1930年、池月駅は「洗足公園駅」に改称する。
その後池上電気鉄道の方は経営不振がたたり、1934年には五島慶太の魔の手(笑)にかかって、目黒蒲田電鉄に吸収されることになる。結果、「洗足池駅」も手に入れたので(笑)もはや洗足池を売りにする必要のなくなった洗足公園駅は、1936年「北千束駅」に改称される。
その後池上電気鉄道の方は経営不振がたたり、1934年には五島慶太の魔の手(笑)にかかって、目黒蒲田電鉄に吸収されることになる。結果、「洗足池駅」も手に入れたので(笑)もはや洗足池を売りにする必要のなくなった洗足公園駅は、1936年「北千束駅」に改称される。
以上が幻の(笑)「池月駅」の歴史である。
池上電気鉄道、東京市に「やめろ」と言われた池上から大森への路線の計画もあったらしいが、そのときには是非、大田文化の森辺りに「磨墨駅」を作ってほしかった(もはや何言ってるのかわからないぞ)。
池上電気鉄道、東京市に「やめろ」と言われた池上から大森への路線の計画もあったらしいが、そのときには是非、大田文化の森辺りに「磨墨駅」を作ってほしかった(もはや何言ってるのかわからないぞ)。
鳥居の前に橋がある。「池月橋」である。
橋から池を見渡した、例によって不毛なパノラマ(笑)。
逆方向、ここは西側の入水路だろう。どこから水が入っているのかはよくわからない。
ここと、水生植物園と亀さんのいた東の入水路と比較して、実際に水路が見える清水窪からの入水路周りが一番地味なのが面白い(水路を渡る橋の記憶もない)。だがあそこには辨財天の弁天島がある。
歴史のある行楽地である。色々うまい具合に演出されているのだろう。
歴史のある行楽地である。色々うまい具合に演出されているのだろう。
公園はまだまだ増殖中の様である。
さっきから政権与党の別の党の演説がやかましい。駅前でやってんだろうが、障害物のない池なのでこちらまでやたらと音が通るのだ。混雑しているとはいえ、心穏やかに散策している人たちの憩いの時間を邪魔するものではない。そもそもここはあんたらの関係している宗教の教祖様の縁の地であろう。しかもくどいようだが選挙戦は明日(10/10)からだ。人が出るからって一民間企業のサービスデイに便乗する根性が実に卑しいぞ。
と、一言言ってやろうと思って(ヘタレななめこさんが言うはずはありません)駅前に戻ってきたら既に演説は終わっていた。
第4章へつづく
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