観音崎尾根 第3回 上町〜聖徳寺坂 その1 浦賀道、大勝利山 [三浦支尾根プロジェクト]
横須賀中央スタートである。
あんな田浦だの逸見だの汐入だの、えっとなんか抜けてるな、ま、いいや、八景で凶暴な幼女の乗る普通に乗り換えてえっさえっさ行く駅よりも、快特でぽんぽんぽんぽーんと一瞬で到達する横須賀中央下車は実に爽快である。(普通停車駅最寄りの方々に失礼だぞっ)
そんなわけで、今日もハロウィーンの横須賀で、Go!Go!Go!!!(最初からイヤなノリだな)
ハロウィーン幼女がウヨウヨいる(男の子もいますよ!)平坂界隈だが、なめこさんは犯罪者ではないので(いやほぼ犯罪者だ)画像はない。どうしても我慢できない方はこれで我慢していただこう。(なんではいふり!?)
そういうわけで(だからどういうわけだよ)、上町1丁目交番交差点のこの地図に啓示を受けた私は、ひとまずはまゆう公園崖上の「一段高い」系尾根道へ向かう。
その後の経緯については、前回のラストの記事で記した。
そして今我々は、中里通りの切り通しにいる。
尾根道と思われる町界道のつづきである、中里通りをはさんだ向かいの、この階段を上ろう。
階段を上りついたところで振り返ってみる。谷をはさんだ向こう側が先程辿った尾根線。
昨日、うぐいす坂から上ってきた浦賀道に合流する。
前回も申し上げたが、浦賀道のこの辺りは南東側の眺望が非常に良い。風景に関してはこちらの記事で既にご紹介しているので省略するが、一応この日の大楠山だけはお約束で貼っておこう。
さてこの先の尾根線であるが、このまま浦賀道をまっすぐ行っても汐入駅の方へ下るだけである。
道から右方向(東方向)に向かわなければならないのだが、これかな?
道から右方向(東方向)に向かわなければならないのだが、これかな?
道のこの先の右側が山がちなので、もう少し先まで行ってみる。因みにこの辺りで例の若松隧道をまたいでいるはずである。
この辺の眺望も良い。汐入駅方面。
真ん中のビルは、汐入駅前のメルキュールホテル横須賀、横須賀芸術劇場とかがくっついているビルである。その右下に、緑ヶ丘女子中学校・高等学校の建物が見える。学校名の文字も見えるが、残念ながらこの画像では判別できない。(こんなのが見えます)
この少し先に東方向に向かう道がもう1本ある。
そこを入ってみよう。
む、この柵は、、、私有地?立ち入り禁止?
品行方正ななめこさん(?)は引き返し、先程の分岐に入ることにする。
プチ峠越え。再びこの辺で若松隧道をまたぐ。
尾根は左側にいるようだが、そのうちこの道自体が尾根になる。
畑の中のいい道である。
畑の中のいい道である。
斜面になった左側を見下ろすと、舗装道路を人が歩いているのが見えた。先程の柵で塞がれた道のようである。あれ?入っていいのかな?
右方向、海が見える。横須賀中央方面。
道は右に下っているようだが、尾根は左側に続いているようだ。
そちらへうにうにっと入ってみよう。
この平らな敷地が何なのかはよくわからない(お宅の跡か?)。何にせよ崖上で行き止まり。根性があれば崖を下って下の道へ出られるかもしれないが、例によってカタギの人はやめておいた方が良い。(笑)
もとに戻ることにする。
因みに、浦賀道からこの辺りまでが町名的には緑ヶ丘で、右折してすぐは上町との境界が右側の崖の辺りを通っていたようだが、右側にお宅が接してくる辺りからこの道が両町の境界になる。
「緑ヶ丘」という近代的な地名は、先程遠望できた学校名と一緒である。地名から取られた学校名であろうと思われる方もいらっしゃるだろうが、開成町や自由が丘などの例を出すまでもなく、その逆の例もあるから油断がならない。
緑ヶ丘の地名の由来は、こちらのpdf(横須賀市内地名考察)から引用すると、
緑ヶ丘の地名の由来は、こちらのpdf(横須賀市内地名考察)から引用すると、
25、緑ガ丘
この地名は町名地番整理によって諏訪町や山王町の各一部を一括して、昭和二十四年四月一日から緑ガ丘と呼ぶに至った。この丘ということは整理の際の方針として「特定の高台的地形にある住宅地帯には、“何々台”とか“何々丘”とか呼称をつけることができる。」ようになっているためで、この地帯にふさわしく丘の字を用いたのである。
とのこと。「この地帯にふさわしく丘の字を用いた」という曖昧ではあるが現地にいればなんとなく納得できる理由で、昭和24年(1949年)4月1日に町名が発足したとのことである。
昭和22年3月 横須賀女子商業学校設立認可
昭和22年4月 高橋美子 初代理事長 就任 山田わか 初代校長 就任
昭和22年6月 緑ヶ丘中学校に校名変更
昭和23年3月 エベレット・トムソン 2代理事長 就任
昭和23年4月 ジェシー・ウェングラー 2代校長 就任
昭和24年2月 緑ヶ丘高等学校設立認可
(以下略)
大変失礼ながら歴代の理事長さんや校長先生のことはここではおいておいて、問題は昭和22年(1947年)6月や、昭和24(1949年)年2月に、既に「緑ヶ丘」の校名が採用されていることである。
学校名が先かどうかは断定できないが、「連動」していた可能性(一緒に決めちゃおうよ♪、みたいな?)は十分あるだろう。
学校名が先かどうかは断定できないが、「連動」していた可能性(一緒に決めちゃおうよ♪、みたいな?)は十分あるだろう。
などということを何も考えていないなめこさんは、右の道を下る。
階段を下り、下界(?)の道に突き当たる。
尾根線は右方向だが、先程の崖の先を見届けるために左へ進んでみる。
やっぱり普通に崖だな。尾根線として目で追うのは良いが、やはりカタギはここを無理に下る必要はなさそうだ。(笑)
もう少し先へ進んでみる。
あれ?これはさっきの柵の道の出口?
あれ?これはさっきの柵の道の出口?
なんか左側の隙間から入れそうだが、品行方正なこのブログ的には侵入するのはやめておこう。
後日、もう一度この前に来たのだが(2018.5.27)、そのときにはこの立入禁止的な状況の明快な理由が表明がされていた。
え?がけ崩れ?
そんなもん中に無かったぞ。(←侵入してんじゃねえかよ!w)
はいはいこの話は終わり。先に進む。(またごまかしてるな)
そんなもん中に無かったぞ。(←侵入してんじゃねえかよ!w)
はいはいこの話は終わり。先に進む。(またごまかしてるな)
む、何か立ってる。リヒャルト・シュトラウスが頭の中で鳴り響く。(あんたは何か立ってるとみんな2001年かよ)
大勝利山。
大勝利山。
右側のごちゃごちゃした山が大勝利山か?
大勝利山に関しては、柱立ててるくせに(横須賀市?)公式な案内説明は見つからない。質問コーナーのこれだけである。(→大勝利山周辺整備について)
言及している個人の方のサイトはいくつかあるが、この下にある豊川稲荷(徳寿院)の碑をシンプルに紹介しているこちらのページがもっとも信頼できるであろう。(→神武天皇遥拝所(豊川稲荷))
先程の質問ページには「日本海海戦」がどうとか書いてあったが、これによれば日清戦争の勝利によって開かれた山なのだそうである。
言及している個人の方のサイトはいくつかあるが、この下にある豊川稲荷(徳寿院)の碑をシンプルに紹介しているこちらのページがもっとも信頼できるであろう。(→神武天皇遥拝所(豊川稲荷))
先程の質問ページには「日本海海戦」がどうとか書いてあったが、これによれば日清戦争の勝利によって開かれた山なのだそうである。
逆方向、尾根のつづきにへ進もう。
中里神社へつづく
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